コメントを投稿する人の特徴


2020年(令和2年)01月11日 土曜日

ブログなどSNSにコメントを投稿する人の特徴

blog、TwitterなどのSNSなど他人の記事に誹謗中傷を書き込む人は多いですが、こういう人は一体どういう心理で他人が不快に思うコメントを書き込んでいるのでしょうか。
ネットニュースの編集者は「どう考えても暇人としか考えられない」とコメントし、堀江貴文さんは「頭悪い」とバッサリ。
確かに明らかにおかしいことに対して反論するのは真っ当な批判と言えますが、反論を書くわけでもなくただ悪口を書き連ねている人は、一体どのような心理でそのような書き込みをするのでしょうか。

1 現実世界で晴らせない憂さをネットで晴らしている

仕事で嫌なことがあったり、人間関係がうまくいかないことは、生きていれば誰にでもあることです。現実世界で起きた問題はきちんと向き合って解決するのが普通ですが、ネットで誹謗中傷を書くような人は、面と向かって人に物を言うことができません。そのため、ネットでケチをつける対象を探し、そこに誹謗中傷を書き込むことでストレスを発散しているのです。相当暇人ですね。ネットでは自分の名前や顔、住所などを相手に知られることはありませんから、書く内容も自分勝手で相手を傷つける内容を平気で書くのです。きっとそういう人は、人と対面した時は一言も発することができないのでしょう。実際、「電車の中でヘッドフォンの音が大きいこと」を指摘できる人はわずか8.9%。一方ネット上では、少しでも気に入らないことがあると即叩く。ネットの匿名性は、小心者の味方なのかもしれませんね。誹謗中傷をする人は自分の常識から外れたことを許せない人が多く、人それぞれ考え方が違うのだということを理解できません。そのため、自分とは全然関係ないことで無駄に怒りまくることが多く、過激なコメントをしたりするのです。

やけ君のブログにも、こんなコメントがあったよ。
・「お前みたいなクソがいるから、はらわたが煮えくり返る。死ね!」
・「面白いブログに興味を持ちました。ぜひ本として出版しませんか」

2 相手より優位に立ちたいという心理

ネットで誹謗中傷を書く人は、承認欲求が強いという特徴があります。ここで言う承認欲求というのは、「誰かに認められたい」「スゴイと言われて人より優位に立ちたい」という心理です。相手を貶めることを言うことで、自分が優位に立ったと勘違いしているパターンですね。自分の小ささを隠すために人を貶める、というかなり幼稚な行為ですがこれを大人が平気でやっていると思うと顔が見えないだけに非常に怖いですよね。こういう人は、悪口を言うしか芸がないので、話が面白くない人が多いのが特徴です。普段人から嫌われている分、ネット上で目立って優位に立ってやろうという心理の表れなのかもしれません。

3 他人を妬む心理から悪口を言う

ネットで誹謗中傷を書く人は、相手に嫉妬していることが多いです。たとえばTwitterのフォロワーが多い人や、ブログのPV数が多い人に対して嫉妬する心理が働き、誹謗中傷を書き込んでしまうというパターン。みんなが楽しんでいる中に否定的なコメントをする人ですね。嫉妬するくらいなら自分でコンテンツを立ち上げればいいと思うのですが、そういう人は基本的に人を楽しませるという精神がないので、他人の悪口をひたすら言うことで自分の自尊心を保っているのです。

4 正当な批判とネットでの誹謗中傷は違う

ネットのコンテンツに対して、正当な批判をすることは間違ったことではありません。むしろ間違いに気づかせてくれた人は、情報発信者にとってありがたい存在です。この記事を書いたのは、ご親切にかなり否定的なコメントを下さった方のおかげですが、記事のネタが1つ増えたことはありがたいです。しかし、意味が分からないコメントや悪口などは非常に不愉快ですよね。でも、ネットでのもめごとはスルーすることでほとんど解決すると言われるように、正当な批判以外は無視するのが一番かもしれません。悪口言われたことにムカついて、感情的にコメントを返してしまえば、相手と同じレベルに立ってしまうことになります。誹謗中傷をされたときは、それに対して「何を言うか」ということが大切なのかもしれませんね。

5 妬み・僻み系

ネットには、人気者であると言うだけで叩こうとする人がいる。ブログではPVが多い人、ツイッターではフォロワーが多い人がその対象になりやすい。面白いネタを投稿してみんなを楽しませる人気者を冷笑し、こき下ろそうとするのが特徴である。

久々に見たひどい記事。これで笑えるとかある意味すごい。

のようにコメントする奴。こういう奴は必ず存在する。記事の内容に対する批判ではなく、人気があることに対して否定的なコメントをするのが特徴だ。

「何が面白いのかわからない」
「寒い」
「スベってるぞ」
と言いながら、自分自身が面白いコンテンツを発信することはない。

6 過剰に自己投影し、被害者意識が激しい人

ネットにはなぜか、自分と全然関係ないことに怒りまくる人がいる。見てきたツイッターでは、「不倫は絶対許さない」とか、「女遊びしている男は人を不幸にしているから滅ぼすべき」のようなことをつぶやく人がいた。

7 承認欲求ゾンビ

これもツイッターに多いのだが、お気に入りやリツイートされるのが気持ち良くて、そこで承認欲求を満たそうとする人がいる。もちろん、面白いことや有用なコンテンツを発信して、それがファボられたり、RTされるのは何も問題ない。
ファボやリツイートを求めるのはネットで情報発信している以上、当たり前のことだ。しかし、中には他人の悪口を言うことで承認欲求を満たす人間もいる。こういう人間の特徴は、「とにかく多数派に付く」ということだ。みんなが叩いているものを一緒になって叩き、一緒に叩いている人に褒められ、認められて喜ぶという特徴がある。自分は反撃されない安全圏を確保し、安全なところから石を投げる。石を投げられた相手の反応を見て喜び、一緒に石を投げている人同士でハイタッチしているようなものだ。

言うまでもなく、これは小学校のイジメの構図に酷似している。

多数派に所属することで安全を確保し、「俺は多数派なんだ」とマジョリティへの帰属欲求を満たす。派手にイジメればイジメるほど、"身内"からは拍手喝采で褒められる。
それに味をしめ、より一層承認を求めるようになり、イジメの対象に粘着してネタを探しているのが、承認欲求くれくれマンの特徴である。
多数派が叩いているものを引き合いに出し、「あいつは馬鹿で、何もわかってない。それに比べて俺はすごい」という内容を発信する人間も同様である。結局求めているのは多数派の承認だ。

文字にすればわかるが、実に幼稚である。
こういう幼稚で愚かな人間は、リアルでは基本的に誰にも相手にされないものだ。内面の矮小さを見抜かれ、呆れられ、友達が少ない。故に暇人で、ネットに活動の場を求めているのである。こういう人は、人の悪口を言うものの、自分が悪口を言われる覚悟はないので、反論されたら過剰に反応し、反論相手にしつこく粘着するようになる。基本的に暇人なので、相手が疲弊するまで粘着し、心を折ることを生業としている。
そして、悪口しか芸が無いため、たまに自分の言葉で発する内容は、恐ろしくつまらない。つまらないがゆえに、自分の言葉で発信した内容は拡散しない。
だからファボやRTを求めて、ゾンビのように「次の悪口」を探しにいくのが特徴だ。こういう人への処方箋は、「ただの悪口は誰も救わない」ということを自覚することだ。
当然ながら、悪口を言われた方は不快になるし、悪口を言う側も、他人(イジメの対象)ありきで発信しているため、その人自身の発言内容が認められているわけではないのだ。

だから、他人のコンテンツに乗っかって悪口をいう時は、「サービスとしての悪口」を心がけるといいと思う。他人を攻撃し、相手を貶めるための悪口より、ネタに乗っかって盛り上げるための悪口の方がいい。
かなり抽象的な表現になってしまうが、意識を「攻撃」に置くのではなく、「楽しむ」ことに置けばいい(ウィットに富んだ皮肉や風刺のイメージ)そうすると、自然と「愛のある悪口」となり、やられた方も納得してしまうものである。

誰もがインターネットで発信できる時代に必要なのは、いちいちヘコたれない「鈍感力」です。インターネットで何かを発信していると、色んな所で叩かれたり、晒されたり、悪口を言われることがあるでしょう。もちろん一部には有益な批判もありますが、少数です。

思わず目を背けたくなるようなひどい言葉を投げかける人もいます。人間は赤の他人にはこれほど冷酷になれるのかと驚くくらいです。

ユダヤ教の教えに、こんな話があります。
「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。
あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことをすきになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残りの7人はどちらでもない人々だ」

これをネットに当てはめて拡大解釈すると、
あなたのツイッターを10人が見たとしたら、1人は何を書いてもあなたを批判し続けるでしょう。7人はあなたが何をしようと無関心で興味もないでしょう。
それでも。残りの2人はあなたが何を言っても無言で応援してくれるでしょう。

ネットの原則は、賞賛よりも批判の声が目立つ点です。これはインターネットが登場したときからずっと同じです。特に、炎上したときは、周りの声が批判ばかりに見えてしまうこともあります。

サイレントマジョリティーといって、声を出さずにあなたを応援してくれている人もいるのです。批判の声ばかりではないことを忘れずにいましょう。

インターネットでは全ての人から賞賛される人はいません。同じように、全ての人から批判される人もほとんどいません。
誰からも叩かれない発信はむしろ、誰にも届かない発言であるとも言えます。

叩かれることを恐れすぎると、
「赤信号で道路を渡ってはいけません」
「カレーライスはおいしいです」
みたいな、無難でつまらない発信しかできなくなってしまいます。

歯に衣着せぬ物言いで、自分の言いたいこと好き放題言うと、批判されます。中には度重なる批判に心が折れて、発信をやめてしまう人もたくさんいます。
このインターネットで自由に発信していくには、どうしたらいいでしょうか。

「嫌われる勇気」で紹介されるアドラー心理学にヒントがあるかもしれません。
ネットで他人の悪口ばかり言ってる人の思考回路はだいたい3パターンに分類できる。

1「権力争い」をしない

アドラー心理学では、原因論ではなく、目的論にそって物事を解釈します。たとえば、「大声を出して人を罵倒している人」がいたとすると、「怒りに駆られて大声を出した」のではなく、「大声を出すため怒った」と説明します。
つまり、「大声を出す」という目的が先にあって、その手段として怒りという感情を捏造した、というのがアドラー心理学の考え方です。
「嫌われる勇気」から引用します。
青年:いくら先生だって、さしたる理由もなく罵倒されたら腹が立つでしょう?
哲人:立ちません。
青年:嘘をついちゃいけません!
哲人:もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。
直接的な面罵に限らず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。

ネットではさしたる理由もなく罵倒し続ける人がいます。もちろんネットに限らず、悪質な職場では上司が部下を晒しあげて、大声で叱責する場面もあるのではないでしょうか。
そういうときは、相手の「目的」を考えるのだと言います。そう、このときの相手の目的は「勝つことによって、自らの力を証明したい」ということになります。たとえば、ネットでよく見られる中傷の場合、「嫌われる勇気」の言葉がそのまま当てはまります。

「相手は批判したいのではなく、ただあなたを非難し、挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです」
思い当たる事例があるのではないでしょうか。
大声で部下を叱咤する上司も同じですよね。ミスを注意するなら間違っている部分を論理的に、筋道立てて注意すればいい。わざわざ大声で晒し者にするのは、「自らの力を誇示したい」という目的があるからです。

ではここで、相手に権力争いを仕掛けられたあなたが、逃げずに売られた喧嘩を買ったとします。そして仮に争いを制したとします。すると、争いに敗れた相手は次の段階に突入します。次の段階とは「復讐」の段階です。『嫌われる勇気』にはこのように書いてあります。「いったん引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちでなにかしらの復讐を画策し、報復行為に出ます」
対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。そうならないために、権力争いを挑まれたときは、絶対に乗ってはならない、というのが『嫌われる勇気』の主張です。

さて、ここまで読むと、ただやられっぱなしで我慢するだけに見えてしまうかもしれません。いちいち言われて、「倍返し」もせずに黙っているのは屈辱のように感じます。
しかし、「嫌われる勇気」の中で、このような感情は「対人関係の罠」として、明確に否定されます。
自分が正しいからといって、相手を非難してはいけない。争わないことが大事であると。対人関係の中で「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れています。なぜでしょうか?主張の正しさは、勝ち負けとは関係ないからです。
「わたしは正しく、相手は間違っている」という風に思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまう。
自分が正しいと思っているなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結する話です。結果的に誤っていたときに、誤りを認めること、謝罪の言葉を認めること、権力争いから降りることは、負けではありません。
競争や勝ち負けを重視するのではなく、自分を正し、自分が正しいと思う行いを貫くことで、自分を変えていくことができるとアドラーは言います。
インターネットでは
「お前は間違っている」
「お前はおかしい」
「いやいや、おかしいのはお前だろ!」
というような権力争いがたびたび発生します。ここで争ってしまってはいけないということです。
自分が正しいと思っているなら、そこで完結させる。他人が何かを言ってくるのは、「他者の課題」であって、「自分の課題」ではない。アドラーは「他者の課題と自分の課題は明確に分離せよ」と言います。
そして、自由であるためには、他者に認められようとしてはならない。アドラーは「本当の自由とは他者から嫌われることである」と言いました。

「他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない」
ということです。なんとなく大学に行って、なんとなく入社して、なんとなく仕事をして、それが他人に評価されるためであるとしたら、自分の気持ちに自由であるとは言えません。「いいマンションに住んで褒められたい」というのは、他者の承認を得るための生き方です。「いい会社にいきたい」というのも同じかもしれない。ネットでも同じように、他人にどう評価されるかを気にしていては、好きなことを発信できません。それは自由であるとは言えません。



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