会話4


2019年(令和元年)10月29日 火曜日

会話4

会話 第1弾 しゃべらない
会話 第2弾 会話が苦手
会話 第3弾 マナー
会話 第4弾 国語力の劣化
会話 第5弾 続かない会話
会話 第6弾 話題のネタ1
会話 第7弾 話題のネタ2
会話 第8弾 話題のネタ3
会話 第9弾 関西人の会話
会話 第10弾 会話のキャッチボール
会話 第11弾 ソーシャルスキル
会話 第12弾 コミュニケーション力
会話 第13弾 あなたは何タイプ?
会話 第14弾 スピーチ
会話 第15弾 プレゼンテーション
会話 第16弾 話し方1
会話 第17弾 話し方2
会話 第18弾 話し方3
会話 第19弾 司会
会話 第20弾 挨拶
会話 第21弾 ビジネス・コミュニケーション
会話 第22弾 考える力
会話 第23弾 5W1H
会話 第24弾 会話力
会話 第25弾 沈黙の心理
会話 第26弾 話し上手1
会話 第27弾 話し上手2
会話 第28弾(最終回) 話し上手3


今回は、「会話 第4弾 国語力の劣化」です。



「国語力劣化―その傾向と対策」この小論は、取り上げた問題の深刻さにくらべるとどうも「劣化の傾向」の把握が弱く、その分「対策」も具体性や多様さが欠けている。

■〔読書格差〕という現象 

「読書格差」だが、これは造語にかかるものだろう。例でいえば、大学生ぐらいの若者で、それまでに本に親しんだことのあるグループとテレビ・ゲーム・音楽などに親しんで活字には縁遠いグループとの「格差」である。

この現象に気付いたのは、授業で、漱石の『三四郎』をテキストにするから、新潮文庫、岩波文庫のどちらでもいいから用意しておくよう、学生に伝えた。ここからはそのやりとりを原文で引用すると、

授業終了後、数人の学生が「その文庫(彼らにとっては初めて聞いた名のようだった)はどこにあるのですか」と聞いてきた。最初は、彼らのいう意味がよくわからなかった。「書店さんでしょう」「どこにあるのかなあ」「駅ビルのなかにあるだろう」次の授業のとき、その学生たちがふたたびやってきて、そこになかったというのだ。よく聞いてみると、彼らはいままでコンビニで雑誌を買うぐらいがせいぜいで、書店に入った体験がほとんどないというのだ。これでは読むことが「苦痛」になるはずである。

長々と引用したが、もうひとつのグループは「朝の十分間読書」などを経験していて読むたのしさを知っている学生たち。この間にある「読書格差」は想像以上に大きいと指摘している。

▲“活字ぎらい”をどう防ぐ  
「読書格差」をもっと重視なくてはいけないと出版関係者に注意を喚起した。その理由は、「売れる本とか、いい本とかを論じている段階を超えているところがあるからだ」。この点に限れば業界の問題かもしれない。しかし、その先にある指摘は、国語力、特にその劣化を考え、憂慮する人が真剣に受け止めなければならない問題だろう。こういう内容である。

習慣が身についていないものにとっての読書は、いくら内容がおもしろくても、どんなに易しくても、さらに視覚的な工夫としてマンガや多くの図版が入っていても、つらいものなのだ。拷問に近いのかもしれない。

これを見て「うーん」とうなってしまった。かつてどこかで「読書感想文を書かせるという課題が“本ぎらい”のこどもをふやす」と目にしたことを思い起こしたからである。なるほど、「読書の習慣」のないものにとっては読むこと自体が苦痛であり、まして、読み取れたかどうか定かでないものについて感想を書けというのはそれを倍増させるものだろう。
しかし、小学生ならいざしらず、大学生の場合は「本を読むのが苦痛」などと言っていられないはずだ。9年の義務教育を終え、さらに高校で3年合わせて12年間学んだ人たちである。それなのに現実には大学生の間にも歴然と「読書格差」がある。

それにはこれまでの教育行政の問題も大いに関わっている。「文部省は『ゆとり教育』を提唱し、そのために日本語教育の時間数をうんと減らした。これは恐るべき愚行であった」と糾弾している。「ゆとり教育」方針は転換されたが、それで問題がすべてかたずいたわけではもちろんない。日本語教育についていえば、大幅に削減された授業時間数を回復すると同時に何を目標にするのか、どのように教えるか、大げさにいえば戦略目標の確立とそのための戦術が求められる問題である。

■影響大きい“ケータイ依存症”

いまひとつ大きい問題は、「屋内でたのしめるものといったら、活字以外なかった」という世代と、テレビ、ゲーム機、携帯電話などがある若い世代との間のギャップがもたらすものである。携帯電話はこれらの機能を集約した“打ち出の小槌”である。通話はもとよりメールをやり取りし、撮影してその映像を送ることもできる。一口でいえば、情報技術(IT)時代の出現である。 
若い人たちには、携帯電話はかたときも手放せないものになっている。文部科学省の調査でも、高校生が授業中にメールしていた事例があった。授業時間中、うつむいている学生がいたらまずまちがいなく携帯メールを送受信しているのである。「当世の学生」にとって大学生活は、高校までの生活の延長であり、「授業中のメール」もそうである。

その携帯電話については、作家の柳田邦男さんが早くから警告しており、こどもと携帯電話の関係は最近ようやく真剣に問われるようになった。専門家によると、ヒトの脳がめざましく発達するのは3歳ぐらいから9歳ぐらいまでで、その後は25歳ぐらいまでゆるやかに発達を続けるのだという。その頭脳が発達する時期に、携帯電話やゲーム機でメールを送受信したり、ゲームに熱中したりすることの脳の発達や感性に与える影響、それが高じての“ケータイ依存症”ももっと真剣に検討されていい。

さて、これまでとりあげてきた「読書格差」が生じないようにするにはどうしたらいいか。あるいは、何についても好ききらいはありがちだから、読書については「格差」が拡大し、固定化しないようにするには何をしたらいいか。

小学校などで始業時の10分間、児童・生徒に本を読ませるやり方が進められていると書いた。これは「朝の十分間読書」といわれ、キャンペーンとして展開されているらしい。また、幼い子への「読み聞かせ」や自治体が絵本などをプレゼントする「ブックスタート」といった取り組みも挙げられていた。また、前回挙げた藤原正彦著『祖国とは国語』(新潮文庫)への解説で、斎藤孝・明大教授は小学校の通信表に「読書活動」の欄をつくるというアイディアを紹介した。斎藤さんは文化庁文化審議会国語分科会という場で提起したのだが、思いのほか評判は悪かったという。

▲提言いくつか

児童・生徒を本に親しませる方法のひとつとして(これは漢字教育のあり方にも関わることだが)、文中の漢字にすべてルビをふる総ルビの採用を考えてほしいと思う。それによって、学校ではまだ教わっていない漢字も読めたし、文章の前後のつながりから意味も類推できた。これは、新聞・雑誌などのメディアにも考えてもらいたいことだ。新聞は、常用漢字表にない漢字や音訓は原則的に使わない。「親戚」は「親せき」式の「混ぜ書き」になるが、これは「戚」が常用漢字表にない漢字だからで、常用漢字の範囲・数という大問題に直結している。そこで、ここでは、意味のわからなくなる「混ぜ書き」はやめる、とりあえずルビをふって「親戚」を使うか、別の言い換えを考えるべきだ―ということで止めておく。

もうひとつは、漢字の教え方に体系性を持たせることである。いま、小学校では学年によって教えられる漢字が決まっている。たとえば、「頭」とか「顔」は小学校2年生で学ぶ。しかし、「頭」に含まれる「豆」は3年生になって習うことになっている。つまり、身体の部位に注目した学年配分で、そうした漢字の成り立ち・系統は後回しにされている。
それで考えたことだが、象形文字から始まった漢字の成り立ちのおもしろさを含めて早い段階から系統的に教えたらどうだろうか。「白川漢字学」ともいわれる体系を立てた白川静博士は、甲骨文字・金文の研究から、「言」という漢字の下辺の「口」は口ではなく、誓詞をいれる「凵」(中ほどに―が入る)だと読み解いた。その上部は刑罰としての刺青をいれるハリを表し、「この通りでまちがいありません。たがえたら罰を受けます」とカミに誓約する意味を持っていたと解釈する(すぐ前言を取り消したり、訂正したりする政治家諸氏に知ってほしい由来だ)。下辺に「口」のある漢字は「告」、「吾」、「君」なども同じような構成でできているという。
「言」でいえば、「言偏」(ごんべん)のある漢字をひととおり示してやるのも一つの方法だろう。「計」、「記」、「訓」などよく使われる漢字がたくさん連なっているから「言偏」の役割の重さが感じられるはずだ。上記の学年配分の問題ともからむので一概にいえないが、漢字教育を無味乾燥なものにしない工夫がもっとあっていい。

その点でぜひ検討してほしいのは、上記の漢字の構造を生徒・児童に体得させるために書道に一定時間をさくことである。書道とはいっていないが、文化庁文化審議会国語分科会が発表した「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」でも、「情報化社会の進展と漢字政策の在り方」(4)で「漢字を手書きすることの重要性」を挙げた。そこでは、漢字を学ぶときと使うときに分けて考えるべきだ、手書き自体が大切な文化だという二つの面から整理する必要があると指摘した。

こどもたちが漢字ぎらいになる一因は、止める、ハネるという書き方や筆順をわけもわからずに押しつけられ、教えられたとおりに書かないと点数がもらえないからである。毛筆で漢字を書くとき、第一画をどこから書いて次につなげるか、縦画を書いたとき止めるかハネるかなどを自然に手に覚えさせることが大切だと思う。

限られた国語の授業時間ではそこまでできないという声がすぐ聞こえてきそうだ。そこで、小論の副題にした「目標」設定が大事になってくる。紙幅も尽きたので、小学校での教科間の重要度について『祖国とは国語』にある藤原正彦さんの断定を引用する。

「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下なのである。(中略)中学高校と、国語の重要性は無論低下する」



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